僕のバックボーン(丸裸で綴る)
皆さんおはよう御座います!こんにちは!こんばんは!
熊本で運送会社の社長をしながらマッスルアップ熊本
https://twitter.com/MuscleUpKumamot
というユニットで活動しているたいちゃん社長です
最近ジメジメ暑くなってきましたね〜😩
いよいよ梅雨入り間近って感じです。。。
熱中症や食中毒など気をつけちゃーすね!
さて。
先日飲み会の場で
『たいちゃんボンボン育ちかと思った』と言われ
これはちゃんと僕のバックボーンを伝えなければと思いこのブログを書いております🤗
何gかは知らん
何グラムか知らんけどシワ美(お母さん)お疲れ様ありがとう
境家の長男として誕生して最初の名前の、候補は力丸(りきまる)だったとか、、、
最終的には大成という名前でホント良かった。(笑)
幼少期は
良く虐められ泣いて帰ってきたり、良く事故に遭いました(笑)
タクシーに跳ねられたり軽トラに跳ねられたり(笑)
まぁよく死なないで生きてます😅
両親はパチンコばかりして帰ってくるのが閉店後だから22時半過ぎでそれから外食行ったりしてました。
その日勝ったか負けたかで焼肉かヒライかでした(笑)
今思うと異常すね(笑)
その当初は当たり前に家でばあちゃんと兄弟3人で待ってましたから(笑)
中学は野球部に入ってました。
ここで一生とも言える仲間にご縁で巡り合って今も何かあれば集まったり話したり貶しあったりしてます。
中学の時はよく職員室に呼び出されゲンコツされたり反省文書かされました😅
※後に、成人してお世話になった先生とばったり会った時はちゃんと「あの時はご迷惑をお掛けしました。」と言えたので良かったです(笑)
親父が高校の時に自転車してたのもあったし、僕があまりにも頭悪くて何処にも行く高校が無かったらコネで秀岳館へ入らせて貰ったんです(笑)
毎日熊本市内から八代市まで片道35kmを自転車で通学してました。(自転車部ですからね)
まぁ友達には「気持ち悪ぃね!(笑)」と言われてました(笑)
右から5番目が僕ですね(笑)
一応キャプテンしてました
んで、コレが練習風景です。先頭が僕です😄
自転車のお陰で九州代表になり、ツールド東北やインターハイなどで各県へ渡ったりできたのでそれはとても良い経験させて頂きました。
しかし自転車乗りながらもこの時、家庭に迷惑を掛けている事に気付いてました。
当時父親はタクシーに乗って母ちゃんはパート。
兄弟は、姉、僕、弟で姉は高校3年、弟は小学生5年生。
2Kの社宅に5人家族。
僕の自転車は30万くらい。
タイヤもパンクすれば変えなん。
遠征、合宿もよくあった。
飯も成長期でたらふく食うので食費も嵩む。
そうなると勿論お金はぶっ飛ぶ訳で。。。
良くドラマにあるような借金の取り立て。
両親の喧嘩。
ガスも電気も止まり冬には水風呂に入った事も多々ある中で
姉も弟も「大成頑張りよるけん」って我慢させた。
この時本当に「頑張らないと行けない」と自然に思っていたし
『いつか競輪選手になって恩返しする。』
とも思ってました。
そして高校卒業すると共に競輪学校を目指す訳です。
高校卒業したらみんな進学や就職について周りが遊びだし楽しそうに見えてました。
僕はずっと練習。
親父からは
『バイトはする時間あるなら練習しろ』と。
また僕を集中させてくれたんです。
当時付き合ってた彼女にも何処行くにもお金出してもらったりしてホント情けなかった記憶があります。
そして2年続けて19歳の時、当時お世話になっていた師匠に
『次の試験で受からなかったら辞めさせて下さい』と申し出て見事に不合格。
約5年の自転車生活に幕を閉じました。
その5年の歳月が何にもならなかった申し訳なさと悔しさが僕の人生の中で1番今の所挫折だったんやと思います。
そして更に高校の時思っていた
「恩返しは必ずする」と思っていた事はその時くらいから決意に変わっていたんやと思います。
自転車を辞めて今の嫁と出会って福岡で1年くらい同棲しその間両親の離婚がありました。まさかまさかで電車の中泣きながら熊本に話を聞きに行ったのを覚えてます。
そして今の長男を授かったので熊本へ帰ってきました。
当時フリーターだった僕は車の免許も無い。職もないただの落ちこぼれでしたのでアルバイトしながらすぐ車の免許を取り中小企業へご縁があり就職する事が出来ました。
そこの企業は倉庫業で毎日何千個という荷物が入ってきていてそれはそれは大変な毎日でした。
しかし当時僕が弱かったせいか上司からの肩パンや暴言や嫌がらせに耐えれなくなり辞めてしまいました。21歳の時だったかな。
よく勤めていた時は嫁に『死にたい』とか泣きながら弱音を吐いたものです(笑)
そして辞めてすぐ親父がタクシーを辞めて軽トラックの宅配をしてたので
『恩返しもせなんし』って事で手伝い始めました。
当初は午前中に100個くらいを配らなくては仕事は捌けなかったのでホント仕事を覚えるのに必死でした。
勿論最初からそんな数の荷物は配れる訳もなく半泣き半ベソかきながら荷物を配ってました(笑)
いやぁ...本当に半泣き半ベソだったなぁ...(笑)
そんなこんなで宅配も2年が差し掛かろうとした時、親会社の業務撤廃でうちの境運送は潰れそうになりました。
何を思ったか親父は
『おい大成。株式会社建てるぞ。お前が明日から社長た。』
と言われ本当に何を言ってるのか分かりませんでした。😂
宅配が仕事無いのに何言ってんの。って。普通なりますよね。
そしたら親父が
『明日から退居後の清掃をする』と言って来たのです。
話を聞くと親父の同級生にマンション持ち(つまりオーナーさん)がいるからその方から退居後の清掃の仕事を頂くという事でした。
それから2〜3年でしょうか...
軽運送の仕事は殆ど無かったので清掃の仕事をしてました。
朝から夜23時まで清掃とかザラでした。
ホント正直清掃は苦痛の時間でした。
やっぱり運送で俺は飯食って行きたいなぁ...
そして緑ナンバー(一般貨物)で頑張りたいなぁ...と思って居ました。
運送の親会社からはその頃。
『数台増やしてくれと』あってたのでボチボチ復活の兆しがあってました。
そして4年前仲のいい同業者の社長さんから軽運送ではなく『一般貨物取ってみらん?』かと助言頂き取る事を決めました。
勿論国の許可を頂くので試験も資金も事業計画書も作成をしなくてはいけないので会社皆んなでしました。本当に大変でした。
しかし試験だけは皆んなではなく、『会社の代表』つまり僕が受けて合格しなければなりません。
法令文書約250ページを毎日毎日仕事終わって夜中深夜、明朝まで必死に勉強しました。
とにかく必死でした。
親会社にも
『1発で受かるので弊社を必ず使って下さい』と直談判してたので必ず1発で受からなければなかったのです。
そして何とか弊社は一般貨物試験を受かり今に至っております。
『恩返しをする』と思っていた事は去年御船町に事務所兼自宅を建てました。
親父と親父のパートナーが一階。
僕の家族が二階。
親父には少しは恩返し出来てるかな。って少しは自負してます。
後は母ちゃんと兄弟。そして勿論我が子や嫁にも。
僕が生きている間に必ず恩返しはしたいです。
親父が身を削ってまでも僕に自転車乗らせてくれた事。
母ちゃんが毎日朝から弁当作って『気をつけて行きなっせ』と僕の姿が見えなくなるまで見送ってくれた事。
兄弟が
『大成が頑張りよるけん』って自分達が贅沢せずに辛抱して応援してくれた事。
僕は絶対忘れんし忘れては僕が僕で亡くなる様な気がします。
まだまだ道半ばで、挫折もあるかもしれません。
今まで35年間より辛い事も必ずあるかと思います。
その度に自分の経験を糧にして前を向いて行きたいと思ってます。
かなり長くなって語彙力の無い文章で見辛かったかと思いますがここまで読んで頂きありがとうございました😊
決して裕福では無い家庭で育ち今も家族には満足いく生活はさせては居ませんがコレからも今を一生懸命生きて恩返しして行きたいと考えてます。
以上。
丸裸?で綴った僕のバックボーンでしたー!
それではまた〜👋🏽
バーイ